茂木 健一郎

食は脳の栄養である

脳科学者

茂木 健一郎 さん

1962年東京生まれ。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー、東京工業大学大学院連携教授(脳科学、認知科学)、東京芸術大学非常勤講師(美術解剖学)。主な著書に『脳とクオリア』(日経サイエンス社)、『脳と仮想』(新潮社)、『食のクオリア』(青土社)など。2006年1月よりNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』のキャスターも務める。

食は脳を活性化する

食は、我々現代人が思っている以上に脳の健康にも大切です。例えば、誰でも人生の中で悩んだり苦しんだりすることがあると思いますが、案外おいしいものを食べると立ち直ったりする(笑)。人生の悩みとおいしいものには実は関係があるんです。 食べ物の人間に対する作用は2つあって、ひとつは消化器官に入って分解され血となり肉となるという身体への栄養という側面。もうひとつは、脳を活性化したり脳によろこびを与えたりする、脳への栄養という側面です。脳の中では、ものを食べてよろこびを感じる働きと、それとは一見関係ないと思われるような、考えたり、感じたりする働きがネットワークとしてつながっています。

最近の研究では、クラシック音楽を聴いたときに活性化する脳の部位と、おいしいものを食べてよろこびを感じる部位は同じだということが分かっています。我々は、食べるということは原始的な欲望で音楽は高級な欲望のように思ってしまいがちですが、脳は区別していないんですね。それぐらい、食べ物は健康に生きるために必要であると同時に、いわゆる精神活動や、脳を育むということにも非常に深く関わるということが、科学的な事実として分かっています。

炎と脳は似ている

茂木 健一郎

人間の定義には、道具を使う、遊ぶ、などいろいろな定義があると思いますが、僕は料理をするという定義があってもいいなと思っています。特に火を使った料理。火を克服して使いこなすようになったことで、人間は料理をするようになり、それが味のレパートリーの拡大に大変な貢献をしました。

脳の進化というものは、非常に長い時間をかけて起こってきました。文明生活は脳の進化にとっては本当に短い時間の出来事であって、我々の脳はむしろ、我々の祖先が生きてきた生活環境に適応しているといえます。当時は炎が唯一自分たちを守ってくれる存在で、おそらく炎を囲んでみんなで語り合ったり、料理をしたり、天敵から身を守ったりしていた。そのときに我々の祖先が感じていたことを感じられるような脳の回路が、我々の中にはいまでもある。ですから、例えば一度も焚き火を見たことがない子どもでも、焚き火を見ると、何か懐かしさのようなものを感じる能力があるわけです。

実は、脳は炎と似ているんです。炎はゆらめいていろいろと形が変化しますよね。脳の中の神経細胞の活動もそれと同じようなものなんです。刻々と形を変えている。生命の本質とは、そうやって常に変化するものだといえるのではないでしょうか。


五感を使わないともったいない!

人間はやはり動物ですから、五感をうまく使って生きないともったいないです。データや知識に頼るというのは文明生活においては大事なことではありますが、例えば食べ物を前にして、これ腐ってるかな、食べられるかなとかいうときに、人間の五感はもっとも活発に活動する。野生動物のあいだでは誰も「この食べ物は賞味期限の範囲内だよ」なんて教えてくれないですから、その中で彼らは食べ物を選んでいるわけです。食べ物を、自分の五感を使いながら、作って、選んで、味わうということは、生きものとして生きるうえですごく大事なことなんですね。それがないと、人間としても命を全うできないと思います。

僕が出演しているNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』のゲストで助産師の方がいらしたんですが、その方はエコーなどを一切使わないんですよ。どうしてですかと聞いたら、データや機械に頼ると五感がすり減るからとおっしゃっていました。妊婦さんの様子は時々刻々と変わる。それを、自分の目や耳を通して感じることで、時々刻々の変化に対応できる。エコーをとっていま胎児がどうだとかやってしまうと、五感をうまく使えなくなる、いま目の前で起こっている現象にちゃんと向き合えなくなってしまうというんです。

僕は、食育の本質もそこにあると思います。食の安心というのはすごく大事で、これはお母さんが作ったものだから安心して食べられる、その事実は子どもにとってすごく大事でうるわしい信頼関係ではあるのですが、食にはやはり人に頼ってはいけないというところもある。ですから、お子さんをお持ちのお父さん、お母さんたちにおすすめなのは、子どもに自分で料理を作らせるということです。


脳の発育には体験が必要

茂木 健一郎

すると子どもも安心できないわけですよね、何しろ自分で作っているんですから(笑)。子どもって普段はご飯が出てきて当然のような顔をしていますが、自分で作らせると途端に変わります。まず、ママやパパがちゃんと食べてくれるかどうか心配で仕方がない(笑)。食べ物の一部分だけ作らせるのでもいいと思います。子どもって、その食べ物が作られるプロセスを自分で経験すると、俄然食に対して別の興味を抱く。そのときに五感も開かれます。

僕は、自分で料理を作るのが一番いい食育だと思います。脳科学者の立場からいうと、脳の発育には感覚性の学習と運動性の学習のバランスが取れてないといけない。特に、運動性の学習には「他人の心が分かる」という学習が含まれています。ミラーニューロンという、鏡に映したように他人の行動と自分の行動を表現する神経細胞があって、それは、他人を鏡として自分の心を理解したりする非常に大事な細胞なんですね。そして、そのミラーニューロンは運動するときに使う脳の領域にあるんです。つまり、自分で体を動かしてやってみないと、人の気持ちは分からないということなんです。

ですから、いくら口で「料理は大変なのよ」とか「食べ物を粗末にしてはいけません」といっても、自分でやってみないことには分からない。自分で体験すればそれが一発で分かります。


人間関係からはじめよう

茂木 健一郎

子どもに料理をさせたり、五感を鍛え始める年齢ですが、僕は、その段階ごとにやるべきことがあるんじゃないかなと思います。これもすごく重要な点なのですが、小さい子どもほど人間関係が大事なんですよね。脳にとってうれしいことというのはいろいろあるんですが、お母さんが褒めてくれたとか、何かを一緒にやったとか、そういうことが最初のステップになって、子どもは次のステップへと上っていくんじゃないかなと思います。ある数学者の方は、自分が数学者になったのは子どものころ、算数の問題が解けて褒められたからだとおっしゃっていました。

料理についていえば、料理をするよろこびはもちろんですが、それを親と一緒にやるよろこびだとか、自分が作った料理を褒めてもらったというよろこび、そういう人間関係のよろこびが最初の種火になって、大きく燃え上がっていくのだと思います。ですから、「料理って楽しいでしょ」というよりは、「一緒にやろうね」とか、「よくできたね」っていう人間関係から入ってあげるのが、子どもに料理をさせ、五感を鍛えるにはいいことなんだと思います。