2007年10月22日、広島県の広島市こども文化科学館で、解剖学者・養老孟司さんの講演会「スーパーサイエンスミュージアム特別講演・脳から見たヒト」が開催されました。これは、広島ガス株式会社が、県内の教育関係者や広島市こども文化科学館と共催している小学5 ・6 年生向けの通年科学講座 「スーパーサイエンスミュージアム」(以下、SSM )の一環として実施されたもの。当日は、SSMに参加している子どもたちのほか、学生さんや親子連れなど約300名のお客様が来場。会場は立ち見も出る大盛況となりました。
マイクの前に立った養老先生は開口一番、「脳が何をしているかを説明するのは難しいんです。 脳は使うと、使っている部分に血が集まって、赤くなるので働いているのが分かるんだけど、いまは脳を直接お見せできないので、皆さんには分からないですよね。今日はここに脳を持ってこられればよかったのですが……」。
養老先生によると、脳の働きは基本的にゲームやコンピューターと同じで、入力—計算—出力という働きで成り立っているとのこと。人間の脳の場合、入力は、見る、聞くといった「感覚(五感)」、出力は体が動くこと、つまり「運動」にあたります。声を出したり呼吸をしたりすることも、脳の指令で筋肉が動く、広い意味での運動です。
赤ちゃんが歩けるようになるプロセスを例に、養老先生は言います。「見るもの何でも初めての赤ちゃんにとっては、自分の手足を動かすこともおもしろい。動かせば違って見えますからね。このように、動かすたびに見えるものが変わる。つまり、出力すると、入力が変わるんです。しかし、脳は見えたものすべてを覚えているわけではない。その中で変わらないことを選んで覚えていきます。やがてハイハイをするようになり、自分からものに近づいていくと、見えるものが大きくなる。脳は、ここでも変わらないものを仕分けています。例えば、遠くにいても近くにいても、猫は猫だと認識する。このようにして、人間の脳は時間や距離が変化しても変わらないもの=『言葉』を生み出していきました」。
人間と違い、ほとんどの動物は言葉を使うことができません。飼い犬が、名前を呼ぶと反応するのは言葉が分かっているからでは、と思いたいところですが、犬は異なる人間が発する声の高低を聞き分けられるため、例えばお父さんが発する「シロ」と、子どもが言う「シロ」は別のものとして認識しているそうです。「つまり、言葉を使えるためには声の高低が分かっちゃいけないんです。人間も、赤ちゃんのころは音の高さを区別しています。そして、言葉が使えるようになるにつれて、その区別をしなくなっていきます」。
たしかに、声の高さを含め、耳がとらえた違うものをすべて “ 違うもの ” として認識していたら、言葉という共通項を使ったコミュニケーションは成り立たないことになってしまいます。たとえ音の高さが違っても、シロはシロである。 言葉はつねに “ 同じ ” だという認識——。
「感覚(入力)でとらえた違うものを、意識(計算)が同じととらえる。これが、人間の脳にできた特別な働きなんですね」。
「いまの教育では、入力—計算—出力のうち、計算の部分ばかり訓練しようとしていますが、入力と出力をきちんとやれば、脳は自然と大きくなります」と養老先生。 3 歳児の識字率と生活習慣を各国で調べた調査によると、識字率の高い子どもは外遊びの時間が長いという共通点があったそうです。五感を使い、体を動かすことで、入力と出力が活発に行われている。「脳を鍛えるには、頭だけでなく体を使うことが大事なんです」。
「現代の大人は感覚も十分に使っていません。特に匂いに対する感覚。いまはみんな無臭を目指しています。赤ちゃんは自分の母親のおっぱいの匂いをかぎ分けることができますが、大人はそれができません。感覚は違いを認識することですから、この会場にいる大人はみんな鈍感ということになります」。養老先生のこの刺激的な言葉に、前列に座っているSSM の子どもたちはいっせいに後ろにいる大人たちの方を振り向きました。
「子どもは分かっているけど大人は分かっていない。これは、いろんな場面で実はよくある状況なんです」。
人間の脳の働きとはどんなものなのか。改めて考えると意外と知らないその仕組みを、養老先生は子どもたちにも分かる言葉を選びつつ、ちょっぴり難しい例や話題にも触れながら、縦横無尽に話してくださいました。今度は、SSMに参加している子どもたちが、養老先生に一人ずつ質問をする番です。
「人間は 20 歳まで成長するといいますが、脳は何歳ぐらいまで成長しますか?」「私は一卵性双生児ですが、姉と利き手が違います。これは脳に関係があるのですか?」「虫の標本を作って、何が分かったときが一番うれしいですか?」
ある女の子が、「頭で考えたことはすぐ行動に移した方がいいのですか」と質問すると、「それは間違い」と養老先生。「思ったとおりにすぐ行動していては、社会は大変なことになります。すぐ行動しないように抑制するのが脳の大事な働きなんです。昔の人は、教育の3 つの柱を『知育・体育・徳育』といいましたが、行動を抑える働きが徳育に当たります。この3つの柱は、脳の働きである入力・出力・計算にちょうど対応しているんですね」。
「いま私たちに一番伝えたいことは何ですか?」という質問には、「元気に外へ出て、大いに遊んでほしいということです。だから君たちも、こんなところにいないで外で遊んだ方がいいんですよ(笑)」。
続いて、一般参加の子どもからもたくさん質問の手が挙がりました。ある女の子が投げかけた、「体の中でどこか一番大切ですか」という質問に、養老先生は力をこめてこう答えました。「人間の体はどこが欠けもダメですが、一方で、どこが欠けても何とかなるようにできています。 例えば、一部の臓器を取ってしまっても体としては普通に生きていける。 生きものの体は、原因と結果の関係がそう単純なものではないんです。ああすればこうなるという簡単なものではない。最近は、ああすればこうなるという結果ばかりが求められ、結果が分からないことはやってはいけないような風潮がありますが、そんなことはない。結果が分からないからこそやってみるべきなんです。
五感を使うこと、体を動かすこと。養老先生のメッセージは、食を選び、味わい、楽しむ力をつける食育にとっても大きなヒントになると感じられました。例えば、1日に必要なビタミンを摂るには何を何グラム食べればよいのか、といった頭の中の知識ばかりを増やすのではなく、実際に食材に触ったり匂いをかいだりして、それぞれの違いを感じたり、上手にできるかどうかにこだわらず思いきって料理にチャレンジしてみる。そんなことが、賢く食と向き合う第一歩としては、一番大切なことなのかもしれません。
感覚と体を使うこと。これは、子どもたちはもちろんのこと、モノがあふれる便利な世の中に暮らし、いろいろな意味で鈍感になってしまった大人たちも、大いに意識してみる必要がありそうです。
<スーパーサイエンスミュージアム(SSM )>広島ガス・県内の教育関係者・広島市こども文化科学館で実行委員会を立ち上げ、企画・運営している科学講座。理科好きな子どもたちの育成を目指して2003年度から活動を開始し、2007年度で第5期生を迎える。受講対象は小学校5〜6年生で、年間の講座数は20程度。
講座内容は学習指導要領にとらわれず、物理・化学・生物・地学・エネルギーと環境など多岐に渡る。年間を通じて固定メンバーで実施することで、より密度の濃い講座・指導が可能である。また、原則として保護者が講座に同伴すること、過去の受講生(OB)も参加して指導講師とともに受講生を指導することも特徴的で、学校・世代を超えて地域から科学の裾野を広げる活動を展開している。
2003年度には(財)社会経済生産性本部エネルギー環境情報センターの「エネルギー広報活動・広報施設表彰者制度」の「エネルギー環境情報センター運営委員長奨励賞」を受賞した。